思ったことを書き綴る「無知の知」

人間という生き物は、少しばかり何かを学び、それによってある程度の評価を得ると、ものすごいたくさん知っているかのように人前で振舞いたくなる習性を持っているものです。正直、SiNQを通じて様々な情報やノウハウを提供している私自身もきっとそうなのだと思います。

あえて言う必要もないかもしれませんが、どんな分野においても、ある程度まで極めるための「学びの道」を歩むというそのプロセスは決して簡単なものではありません。でも、人間は、時として、実に愚かな考え方をします。「自分には限られた知識しかない」という事実は自分自身が一番良く知っている事実でなのですが、どんな人間でも、時に「自分は何でも知っている」というような“錯覚”に陥ることがあります。でも、「自分は何でも知っている」ということを軽々しく言えるということは、「実は何も知らない」あるいは「知ってはいるが、実はそこそこ知っているだけだ」という証となってしまいます。

セミナーや本で得た情報だけですべてを知ったような気になってしまっている人。知識ある人のそばにいて聞いているだけで知ったような気になってしまう人。そのような人は表面的な発言が出来たとしても、実際には何もできないので結果が出せません。世の中に存在するコメンテーターやコンサルタントを称して活動している人のほとんどはこれに該当するのではないでしょうか。

古代ギリシア時代における偉大な哲学者、ソクラテスは、「知」を愛し、「知」を求めることに自分の人生を託した人です。古代ギリシア語においては、「哲学」(philosophia)という言葉は、「知」(sophia)を「愛する」(philein)という意味からきていますが、このような”知を愛すること”、即ち「愛知」はソクラテスによって確立されたものであると伝えられています。

さて、プラトンの訳によると、ソクラテスは、「助産術」と呼ばれる問答方式で周囲のソフィストたちに本当の「知」を認識させることに努めたのですが、ソフィストたちは自分たちの無知をソクラテスによって悟らされてしまうため、自己反省のできない者達からはひどく嫌われてしまったのです。ソフィストの中には、少しばかりの知識があるだけで、さぞ自分が“偉い人物”であるかのような錯覚に陥り、自分自身に対するプライドばかりが高い人物が多かったようです。

当時のギリシアでは学問をするというのは贅沢なことであったので、大衆は“学問をする人”を敬う傾向が強かったのですが、ソフィストといえども決して万能な存在者ではありません。ある程度、学問を修めたとしても、その知識は決して万能なものではないのです。ソクラテスは、「自分は何でも知っている」と自負する人は、実は「何も知らない人」であり、人間は、自らをそう思っている間は、決して「真の知」には到達できないと力説しています。

「“自分は本当は何も知らない”という自分自身の“無知”に気づくことが真の知への扉の前に立つことである」

というこの考え方は、古代ギリシア時代のみではなく、いつの時代にも通用する考え方、理念だと私は思います。

こういう話はいろいろな人が言葉を変えて伝えてきたことのようです。

かの有名な孔子も同様のことを言っています。

子曰、由、誨女知之乎。
知之爲知之、不知爲不知。是知也。

孔子云う、「由(弟子の子路の名)よ、
お前に知るとはどういうことか教えようか。
知っていることは知っているとし、
知らないことは知らないとはっきりさせる。
これが本当に知るということだ」と。

自分の無知を知ることこそが、真実の知への扉を開きます。

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