奈良の聖徳宗総本山である「法隆寺」は、
金堂や五重塔をはじめ、現存する木造建築では世界最古といわれる建造物があります。
イカルという鳥の名に由来を持つ斑鳩(いかるが)の地に法隆寺が建立されたのは607年(推古15年)のことで、
推古天皇と聖徳太子が用明天皇の病を治すために、薬師像を祀る斑鳩寺(現法隆寺)の建築を進めたことが始まりとされています。
しかし、用明天皇のために創建された最初の法隆寺は、
創建から64年後の670年(天智天皇9年)に火災で焼失したと日本書紀に記されており、
現在の法隆寺は、672年から689年にかけて再建を始めたものとされています。
1400年の年月を経て18万7千㎡もの広大な敷地内には、
19棟の国宝建築物をはじめ、幾つもの文化財が存在し、
文化史上重要な寺院であることから1993年12月に日本で最初に世界文化遺産に指定されています。
「南大門(国宝)室町時代」
法隆寺の玄関にあたる「南大門」は、創建時のものは、永享7年(1435年)に焼失し、
永享10年(1438年)に現在の門が再建されています。
三間一戸の八脚門で、単層入母屋造。
東大寺南大門(奈良県奈良市)・東照宮陽明門・日暮門(栃木県日光市)とともに、日本3大門のうちの1つとなります。
南大門をくぐると中門と五重塔が見えてきます。
5月の初めは、新緑が美しく、境内は風通りが良く過ごしやすい気候です♪
神社や仏閣では、鳥居をくぐったところの参道脇や社殿の手前に手水舎が設置されています。
手水舎は、お参りの前に手を洗い、口をすすいで身を清める場所で「てみずや」または「ちょうずや」と呼ばれています。
手水舎の由来と起源
古来、神社に参拝するときに、近くを流れる川の水や湧き水で手を清めていました。
しかし、清流や湧き水が神社や仏閣の近く確保できなくなり、
それに代わるものとして、境内に手洗場を設けるようになったのが手水舎の起こりと言われています。
手水舎での作法
①右手で柄杓の柄を持ち、一回で手水(ちょうず)を掬います
②左手を洗い清めます
③柄を左手に持ち替え、右手を洗い清めます
④再び右手に柄を持ち替え、左手に水を溜めて口をすすぎましょう
④もう一度左手を清めます
⑤最後に柄杓の柄を下方に立てるようにし、清水を流し柄杓をすすぎます
(注意:口をすすぐ際に、柄杓に口を付けてはいけません)
「中門(国宝)飛鳥時代」
西院伽藍の本来の入口となる中門の深く覆いかぶさった軒、その下の組物や勾欄、それを支えるエンタシスの柱、
いずれも飛鳥建築の粋を集めたものです。
重厚な扉と左右に立つ金剛力士像(奈良時代)は、日本に残っている最古のものとなります。
「法隆寺金剛力士像 吽形(うんぎょう)」
塑像:高さ379cm(711年・重要文化財)
口を閉じ、左下を睨み付け左に立っているのが吽形(うんぎょう)像です。
「法隆寺金剛力士像 阿形(あぎょう)」
塑像:高さ380cm・(711年:重要文化財)
大きく口を開き右に立っているのが阿形(あぎょう)像です。
2つの像は、本来、木の芯の上から粘土で肉付けし、形を整える塑造という手法で造られた塑像ですが、
吽形像(左側の像)は、16世紀に顔以外の部分は木造に作り替えられており、色合いが異なるのが判ります。
チケット売り場にて、西院伽藍内、大宝蔵院、東院伽藍内と3箇所共通の拝観料を支払いましょう。
個人料金(1名)一般:1,500円 / 小学生750円
以前、拝観料は1,000円でしたが、少子化の影響で参拝客の多くを占める修学旅行生が減ったことや
旅行先の多様化が影響したとみられ、寺の古谷正覚執事長は、
「多くの文化財を抱える寺の維持のため、ある程度の浄財が必要と判断した」とし2015年から値上げされています。
受付でチケットを提示し、1箇所ずつチェックしていただき入場しましょう。
境内に入ると五重塔が大きくそびえ立ち、法隆寺のご本尊を安置する聖なる殿堂の金堂は右手に伺えます。
「五重塔(国宝)飛鳥時代」
塔はストゥーパともいわれ、釈尊の遺骨を奉安するためのものであり、
仏教寺院において最も重要な建物とされています。
高さは基壇上より約31.5mで、日本最古の五重塔として知られています。
この最下層の内陣には、奈良時代のはじめに造られた塑像群があり、
東面は維摩居士と文殊菩薩の問答、北面は釈尊の入滅(涅槃)、
西面は釈尊遺骨(舎利)の分割、南面は弥勒菩薩の説法が表現されています。
奥に進むと経蔵と大講堂が見えてきます。
「経蔵(国宝)奈良時代」
この建物は経典を納める施設として建立されましたが、
現在は、天文や地理学を日本に伝えたという百済の学僧、観勒僧正像(平安時代)を安置しています。
また、堂内には三伏蔵(他は金堂内と大湯屋前)の1つがあり、
法隆寺を再興できるほどの宝物が収められていると伝えています。
「大講堂(国宝)平安時代」
大講堂は仏教の学問を研鑽したり、法要を行う施設として建立されましたが、
鐘楼とともに延長3年(925年)に落雷によって焼失しました。
正暦元年(990年)に再建され、ご本尊の薬師三尊像及び四天王像もその時に作られています。
「回廊(国宝)奈良時代」
回廊は、東側の鐘楼、中央の大講堂、西側の経蔵に繋がり、西院伽藍を形造っています。
平安時代以前の回廊は、経蔵、鐘楼の手前で閉じられ、大講堂、経蔵、鐘楼は回廊の外側に建っていました。
また、西側より東側のほうが一間だけ長くなっているのは、金堂と五重塔のバランスを考慮したものだと考えられています。
五重塔内、金堂内等、内部の撮影は禁止となります。
心地良い風が吹き抜ける大講堂の中へ。
大講堂内部も撮影禁止ですのでお見せできませんが、日光、月光の脇侍を左右に従えた薬師三尊像が安置されています。
飛鳥や天平期のものではなく、平安後期の作となります。
3体の仏様は、それぞれ檜材の寄せ木造りで、丸みのある顔立ちや肉付きのよい胴体などから、
平安を代表する仏師、定朝の流れを汲むものと言われています。
大講堂では、修正会や仏性会などの、法隆寺伝統の行事が開かれ、
正式名称を「最勝王経讃説」という修正会は、お経が読まれ、お経の注釈が行われる学問の場となります。
こちらから眺める五重塔もまた素敵です♪
聖霊院の前では、鏡池が水をたたえています。
明治の昔の頃はこの池のほとりに茶店があり、
ここで一休憩した正岡子規が即興で詠まれた俳句が有名です。
「柿くへば 鐘が鳴るなり 法隆寺」
「聖霊院(国宝)鎌倉時代」
鎌倉時代に聖徳太子信仰の高揚にともなって、聖徳太子の尊像(平安末期)を安置するために、
東室の南端部を改造したのがこの聖霊院です。
内部には3つの厨子があり、中央の厨子には法隆寺のご本尊でもある聖徳太子45歳の像、
左の厨子には太子の長子・山背大兄王や兄弟皇子の殖栗王の像、
右の厨子には太子の兄弟皇子・卒末呂王や高句麗僧・恵慈法師の像(いずれも国宝)が祀られ、
秘仏として毎年3月22日のお会式(御命日法要)の時にご開帳されます。
奥に進むと網封蔵が見えてきます。
この奥には、国宝が多数安置されている大宝蔵院があります。
「網封蔵(国宝)奈良時代」
寺宝を保管するための蔵です。
この蔵は「双倉」といわれる奈良時代の代表的な建物となり、
かつて法隆寺には、このような倉が33棟も建ち並んでいたといわれています。
「大宝蔵院」
百済観音堂を中心とする東西の宝蔵には、
有名な夢違観音像(白鳳時代)・推古天皇御所持の仏殿と伝える玉虫厨子(飛鳥時代)・
蓮池の上に座す金銅阿弥陀三尊像を本尊とする橘夫人厨子(白鳳時代)をはじめ、
百万塔や中国から伝えられた白壇造りの九面観音像・天人の描かれた金堂小壁画など、
日本を代表する宝物類を多く安置しています。
奥に進むと東大門が見えます。
この先には、聖徳太子が住まわれた斑鳩宮跡に建造された夢殿があります。
「東大門(国宝)奈良時代」
「中ノ門」ともよばれるこの門は、西院と東院の間に建っています。
かつては鏡池の東側に南向きに建っていたようですが、
平安時代ごろに現在の場所に移されたといわれています。
この門は、三棟造りという珍しい造りをしており、奈良時代を代表する建物の1つとされています。
広過ぎることなく、程好いサイズ感の法隆寺は、混み合うこともなく、とても拝観しやすいためお勧めです。
過ごしやすい時期とはいえ、少しお茶屋さんで涼を楽しみ休憩して帰ることに致しましょう♪
法隆寺
奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺山内1-1 TEL:0745-75-2555
営業時間:8:00~16:30
http://www.horyuji.or.jp/